※この記事には、映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』の結末に触れる内容が含まれます。
エンドロールで流れ始める「机さする」に、セイレーンも人魚も出てきません。
歌われるのは、机や花瓶、眠れない夜といった小さな日常です。それでも聴いていると、島から帰ったちいかわの姿が浮かびます。
この記事の私なりの結論を先に書くと、「机さする」は冒険を終えた歌ではなく、誰にも話せないものを抱えたまま、いつもの生活へ戻ろうとするちいかわの歌として読めます。
そしてオープニングテーマ「くつずれ」と並べると、ハチワレからちいかわへ、ちいかわからハチワレへ返された2人の歌のようにも聴こえるんです。
「くつずれ」は、ハチワレが見つめたちいかわの痛み
「くつずれ」を歌っているのはハチワレです。配信上の歌唱名義はハチワレ(CV.田中誠人)で、作詞はナガノさん、作曲はトクマルシューゴさんが担当しています。
ただ、原作漫画を思い出すと、実際にくつずれを起こして足を痛めていたのはハチワレではなく、ちいかわでした。
ハチワレが自分の痛みを歌っているのではなく、くつずれを起こしたちいかわを見ながら歌っている。そんな読み方ができます。
痛いけれど、ちいかわは歩いている。前を向こうとしている。でも、やっぱり痛そうです。
その姿を横で見ているハチワレが、ちいかわの気持ちを代わりに歌にした。「くつずれ」はハチワレの歌でありながら、ちいかわについて歌った曲なのかもしれません。
ハチワレは、ちいかわの気持ちを言葉にする
ハチワレは、見たことや感じたことを言葉にするのが得意です。うれしいときも、怖いときも、状況を声に出します。
一方のちいかわは、気持ちを長い言葉では説明しません。泣いたり、震えたり、小さく声を出したりする人です。
だからこそ、ハチワレがちいかわの気持ちを言葉にしてくれる場面があります。「くつずれ」も、その延長にある曲だと考えるとしっくりきます。
ハチワレは、痛みをなかったことにはしません。前向きに歩こうとしても、痛いものは痛い。目だって少し潤んでしまう。
ちいかわの弱さを隠さず、そのまま歌にしているんです。
「机さする」は、ちいかわからの返事として聴ける
そう考えると、エンディングの「机さする」は反対側から聴こえてきます。
「くつずれ」がハチワレから見たちいかわの歌なら、「机さする」はちいかわの側から見たハチワレとの歌です。
「机さする」の歌唱は、ちいかわ役の青木遥さん。作詞はナガノさん、作曲はトクマルシューゴさんが担当しています。
名義がちいかわ本人の劇中歌という形ではないからこそ、作中で言葉にされなかった、ちいかわの心の中をのぞくような曲になっています。
もちろん、曲の視点が公式に明言されているわけではありません。ここからは、映画の結末と歌のイメージを重ねた考察です。
ハチワレにさえ話せないことができた
島で、ちいかわはヒトハとフタバの秘密に気付きました。でも、ハチワレには話しませんでした。
ちいかわとハチワレは、怖い目に遭ったことも、うれしかったことも共有してきた2人です。そんなハチワレにさえ、今回は言えない。ここが重いんですよね。
話せば少し楽になったかもしれません。ハチワレなら、きっと真剣に聞いてくれる人でしょう。
それでも、ちいかわは黙って島を離れました。ヒトハとフタバの秘密を暴かないためなのか。これ以上、誰かが傷つかないようにしたかったのか。
そこまでは映画で明かされていません。確かなのは、ちいかわが一人で持ち帰ったものがある、ということです。
「聞かないけどね」が残す、ちょうどいい距離
何があったか べつに 聞かないけどね
「机さする」の歌詞より引用
「机さする」には、相手に何があったのかを無理に聞かない言葉が出てきます。
これは、ちいかわからヒトハとフタバへ向けた言葉にも聴こえます。秘密に気付いても、問い詰めない。本人たちの口から答えを言わせようともしない。そのまま黙って帰る。
ただ、ハチワレからちいかわへ向けた言葉としても読めます。島から帰ったちいかわの様子が少しおかしい。何かを抱えていることも、たぶん分かっている。
それでもハチワレは、何があったのかを追いかけない。理由を聞かず、いつもどおり隣にいる。
どちらが正解なのかは分かりません。でもこの曲にあるのは、「全部話して」ではなく、「話さないなら、それでもいい」という距離感です。
「くつずれ」は写真、「机さする」は文字で残そうとする
「くつずれ」では、ハチワレが写真を見返します。ハチワレはカメラを使って、楽しかったものを形に残す人です。
昨日の空。食べたもの。友達と過ごした時間。よく覚えていなくても、写真を見れば思い出せます。
でも、ちいかわが島で知ったことは写真に写りません。秘密に気付いた瞬間の怖さ。誰にも言わないと決めた重さ。自分の選択が正しかったのか分からない迷い。
そういうものは、カメラを向けても残せません。だから「机さする」では、書いて残そうとします。
「書き残す」のは、記憶を失う未来が怖いから?
ここまで、「くつずれ」は写真で思い出を残す歌、「机さする」は言葉で記憶を残そうとする歌として見てきました。
ただ、ちいかわの世界で「忘れる」という言葉を考えると、もう一つ不穏な可能性が浮かびます。
それが、キメラ化です。
キメラ化は、単に身体が大きくなったり、強くなったりするだけの変化ではありません。元の姿や暮らしに戻れなくなり、それまでの自分が失われてしまうかもしれない変化として描かれています。
もし、ハチワレがキメラ化してしまったら。
もし、そのあとで、ちいかわ自身までキメラ化してしまったら。
2人で過ごした時間を覚えている人が、誰もいなくなってしまうかもしれません。
だから、写真に残す。
文字にして書き残す。
いつか思い出せなくなったとしても、「キメラではなかった自分たちが、一緒に暮らしていた」という事実だけは、どこかに残しておきたい。
そんな切実さが、「机さする」の日常的な言葉の奥に隠れているようにも聴こえます。
もちろん、映画の中でハチワレやちいかわが実際にキメラ化したわけではありません。これは、キメラ化によって記憶や自分自身を失う未来を重ねた、ひとつの読み方です。
机をさするしかできない身体になったとしたら
「机さする」という題名そのものも、キメラ化と重ねると違って見えます。
本当は、鉛筆を持って、忘れたくないことを書き残したい。
けれど、身体が変わり、以前のように物を持ったり、文字を書いたりできなくなっている。だから、目の前の机をさすることしかできない。
そのような場面を想像することもできます。
歌詞の中で、実際に誰かがキメラ化しているとは示されていません。しかし、「書き残したいのに、まだ書けていない」という状態を、身体の変化によって書けなくなった姿として読むと、題名の意味が急に重くなります。
机に向かいながら、文字を書くのではなく、ただ表面をさすっている。
そこには、記憶はあっても記録できない、あるいは記憶そのものが消えかけている人の姿も重なります。
ハチワレの「強くなりたい」という願い
ハチワレは、もっと強くなりたいと願う人物です。
討伐で失敗したり、自分の力不足を感じたりしながら、それでも前に進もうとします。
そのため、「強くなれる変化」が目の前に現れたとき、キメラ化に近づいてしまう可能性を想像させる人物でもあります。
ハチワレが「強くなれるかもしれない」と考える変化を、ちいかわは「ハチワレではなくなってしまうかもしれない」と受け取る。
この対照を置くと、「机さする」は、キメラ化していくハチワレを止められなかったちいかわの歌としても聴こえてきます。
友達が変わってしまう。
自分も、いつか変わってしまうかもしれない。
それならせめて、変わる前に、一緒にいた証拠を残しておきたい。
写真も、文字も、花瓶も、そのために必要だったのかもしれません。
「ひとりごつ」「くつずれ」「机さする」は続いている?
このキメラ化の読み方では、「ひとりごつ」「くつずれ」「机さする」の3曲も、一つの流れとして見えてきます。
「ひとりごつ」は、一人で暮らすハチワレの日常を歌った曲です。
そこには、質素ではあるけれど、ハチワレ自身の言葉と生活があります。
「くつずれ」では、その視線が友達へ向かいます。
ハチワレは、痛みながら歩くちいかわを見つめ、写真によって一緒に過ごした時間を残そうとします。
そして「机さする」では、その思い出を、さらに文字として残そうとする。
しかし、キメラ化という未来を重ねるなら、最後には文字を書くことさえできず、机をさするだけになってしまったのかもしれません。
「ひとりごつ」から「くつずれ」、そして「机さする」へ。
これは、暮らす歌から、記憶する歌へと変わっていく3曲なのかもしれません。
「机さする」は、変わる前の2人を残す歌
「くつずれ」がハチワレから見たちいかわの歌なら、「机さする」は、ちいかわからハチワレへ返された歌として聴くことができます。
さらにキメラ化の可能性を重ねると、それは単なる友情の歌ではありません。
友達が変わってしまう前に。
自分も変わってしまう前に。
2人がまだ、ちいかわとハチワレだった時間を残しておこうとする歌です。
写真に残っている景色。
書き残そうとした言葉。
花瓶に結ばれたリボン。
もちろん、キメラ化は公式に示された結末ではありません。
「ひとりごつ」で自分の暮らしを歌い、「くつずれ」で友達を見つめ、「机さする」で2人の記憶を残そうとする。
そう考えると、この3曲は別々の歌ではなく、ハチワレとちいかわが、変わっていく世界の中で友達であり続けようとする物語なのではないでしょうか。
あなたなりの解釈も考えてみてください。